#1 実際に対談して伝統工芸を学ぼう “ブランドジャパン伊窪 × 東京銀器 伝統工芸士 笠原信雄”
昭和31年文京区本郷に笠原銀器製作所として仕事をして現在に至る。幼少期より東京銀器の職人として従事され、父宗峰(勲七等授章)の後を継いだ。
笠原さんの販売作品
最近の仕事のやりがいは、国宝の修理を依頼されることがあり、一般の人が触れない国宝を手に取り修繕できるのはこの仕事をしていたおかげと意気揚々と話をしていただいた。
昔は家族のために仕事をしていたが、今では自分の趣味みたいに楽しくやっている。この職業には定年がなく、ずっと好きなことができるのが魅力ではないかと語る。
東京銀器には鍛金・絞り・彫金・切嵌・仕上げの工程があるが、笠原さんのところでは鍛金・絞り・切嵌の工程を自分で行っている。
彫金や仕上げについては協力先に仕事の依頼を行っているが、協力先は製品の注文がないと仕事がなく、自分でモノを売ることができないという厳しい世界である。
職人によっては芸術品として観賞用でモノを製作する方も多いが、笠原さんはお客様に普段使いをしてもらうことで喜びを感じてもらいたいようだ。
有名な笑い話ではあるが、展示会主催者の銀製の花器の作成依頼を彫金師が受け、器を彫金師が依頼して、その器にデザインを施した。展示会に来ていたお客様がその花器をご購入され、水を入れたら漏れたとの話を販売員が彫金師にしたところ、彫金師より「花器に水を入れたのですか?」と当たり前の質問をされたよう。彫金師はあくまでも飾りとして作ったと意識の違いがあるらしい。
東京銀器の最盛期
東京銀器の組合員全員が忙しくなれば助け合いが生まれることになるが、現状のように売り上げが厳しい場合は自分のところを守るのに必死になってしまう。
先代と一緒にやっていた時は忙しい波が2回ほどあった。その当時は職人を5人ぐらい雇用していたという。1回目は第二次世界大戦が終わり日本から占領していた外国の兵士が帰国する際に、日本の銀製のものをお土産として持ち帰ったようだ。
昔は、銀には手入れが必要なため、お金を持っている人は“金よりも銀”の方が愛用されていた。理由は、金はそのまま置いていても錆びないが、銀は手入れをしないと錆びるため、お手伝いさんを雇っているステータスにもなるようだ。イギリスの暖炉の前に銀製のお盆とグラスを飾ってあるのはそのステータスの象徴である。
また2回目はゴルフブームだ。大きなトロフィーの作成依頼がどこのゴルフ場よりもオファーがあった。今では、真鍮や金に置き換わったり、小さい銀器のものが使用されている。
販売方法
笠原さんのところでは、組合を通じた販売と自社HPでの販売をされている。
過去には東京銀器の組合が中心となって、海外にもよく出店をされていたとのこと。(中国・韓国・タイ等)ただ現状は、組合の財政状況が厳しく出店を控えている。
過去の成功体験で百貨店で伝統工芸品店を開催した際に東京銀器のブースを構築したが、小さいものは少し売れたがメインのものが中々売れなかった。
そこで小さいものは取りやめて5万円以上のもので売り場変更して臨んだ。当初は売り上げが落ち込んだが、最終日前後にお客様が購入していき、トータルでは前年を大きく上回ることが出来たというお話をいただいた。
後継者問題
今年、年齢80歳を迎え、後継ぎがおらず、原料がなくなり次第、廃業を検討しているご様子。ただ作るモノがあって、売れる場合であれば継続を考えている。
少し前には趣味で出会ったバイク仲間の弟子が1人いた。笠原さんのところに3回ほど頼み込み、念願の弟子入りし、6年ぐらい週3日通い鍛金の技を磨いた。笠原さんよりも上手いのではないかというぐらい上達した。ただ他の東京銀器のところで人材が欲しいとの依頼があり移籍させたが、怪我をしてしまい途中で辞めてしまったようだ。
年収について、400 - 500万円は多いほう。会社単位でやっていればそのぐらいはあるかもしれないが、個人でやっているとそんなにもらえない。厳しい様子。
現在の活動状況
現在は、東京都より近隣の小学校で小学3年生に対し、東京銀器の講義依頼を受けている。その理由としては今まで受け継いできたことを少しでも伝えていきたいとの思いがある。
また銀の手入れのサポートも行なっている。末長くモノを愛用できるように、笠原さんの作品以外にもメンテナンスを受け付けているようだ。
笠原銀器製作所:
http://www.kasaharaginki.com/kaisya.html
今回のインタビューに対して、笠原さんには快く受けていただきました。この対談を通じて、少しでも多くの方に伝統産業の現状を共有できればと思い記事にさせて頂きました。
なかなか知ることの出来ない伝統産業に従事される伝統工芸士の“生の声”をこれからも発信していければと思っております。